新しいグローバル社会においての新しいグローバルな教養知としての発達理解

昨日は7時まで寝ていて、今朝も6時に目覚ましで起きる。
ここ1ヶ月ほど、何もしなくても4時から4時半頃に目が覚める毎日だったのだが、正常化したのか、疲れているのか?

 

「大学教育学会誌」第37巻第1号に掲載されている吉見俊哉教授の講演録「グローバル化/デジタル化と大学の未来ー通過儀礼からキャリア/ビジョンの転轍機へ」を読む。

 

おもしろい。特に大学の再定義として3つのビジョンを出しておられて、その中のひとつに「人生の通過儀礼からキャリア/ビジョンの転轍機へ」があり、これと表裏をなすのが「人生で3回大学を出るのが当然の社会へ」だということ。3回とはおおむね、18歳、30歳代前半と60歳前後(出るのではなく入るのほうですね)。

 

この3つの時期に、多くの人が大学に入りなおす先として価値のある場所へと大学は変わらなければならない。そうなるためには、「リベラルな知」と「有用な知」のダイナミズムが重要で、これらは両方なければならない。

 

そして現在私たちは、21世紀社会における「有用な知」が何かはおおむねわかっている。環境、情報、リスク、課題発見型、課題解決型の知になるだろう。

それに対して、「新しいグローバルな社会においての新しいグローバルな教養知とは一体何かということは、私たちの重要な問いだと思います。答えは見えていません」(

p.11)との指摘。「19世紀までの近代国民国家を前提とした教養知とは違う知が求められていると思います」とも。

 

なるほど、かなり納得。

そしてワクワク。

 

「発達保障」およびそのための「発達学習」は、「新しいグローバルな社会においての新しいグローバルな教養知」の重要な構成要素ではないだろうか。

 

そもそも発達心理学が成立したのは20世紀に入ってからだから、19世紀までの教養知に発達理解や発達学習は含まれようがない。

 

ただそういう消去法的な意味ではなく、発達を深く知ることは、上記の3つの時期において非常に重要である。それによってビジョンやキャリアが変わっていくことを実感することにつながるものであるから。

 

「発達を学ぶ」ことの意義を、私自身あちこちで多少論じてきたが、いわゆる「有用さ」とは距離を置きたいと思いつつ、立ち位置が定まりきらなかった。

このように分類してみると、スッキリするような気がする。